日本では社会システムを新しい環境にマッチしたものとすべく各種の制度改革が進められてきた。金融面では、各種の金融商品を横断的に扱うとともにこれらの購入者(投資家)保護を規定した「金融商品取引法」がごく最近(2006年6月)制定された。また、医療面では、医療費の公正な決定を図るための制度改革が昨年(2005年6月)決定された。本稿はこの二つを取り上げ、それぞれの含意をミクロ経済学(具体的には契約理論およびゲーム理論)によって解明することを試みたものである。
第1部「金融商品取引法における個人投資家の保護・育成に関する契約理論的分析」では、金融商品取引法(通称、投資サービス法)が個人投資家の保護・育成に与える効果を契約理論を用いて分析した。金融商品取引法は、各種の金融商品を横断的に規制することによって、利用者の適切な保護と市場における不公正取引の防止を目的とした法律である。この法律においては「個人投資家の保護・育成」が1つの柱になっており、それを的確に理解するには、金融商品の販売、あるいは金融商品への投資を金融商品販売業者(銀行・証券・保険会社の営業マン)と個人投資家との契約と考えると共に、そうした契約では両者の持ち合わせている情報の質や量に非対称性があることに着目する必要がある。ここでは、投資サービス法の制定前と制定後につき、(a)営業マンが個人投資家に対して適合性原則(個々の個人投資家にふさわしい金融商品を提案すること)に沿った勧誘を行う可能性の度合い、(b)社会全体の厚生(個人投資家の余剰・営業マンの余剰・資本市場の余剰の合計)の程度、の比較を行った。分析の結果、次のことが判明した。@投資サービス法のない場合には営業マンが適合性原則に沿わない金融商品の勧誘を行う(モラルハザードが生じる)が、同法がある場合には事態は改善され、個人投資家の保護が実現する可能性がある。A投資サービス法のない場合には、個人投資家が十分に育成されている(個人投資家の金融リテラシーが高い)としても社会全体の厚生は達成しにくいのに対して、同法がある場合には、営業マンの行動の如何によらず、個人投資家の金融リテラシーが高い場合に望ましい結果が得られる。B金融商品の売買に関する被害が依然として多く見られるなど現在個人投資家の金融リテラシーは高いとはいえないので、投資サービス法の制定は評価できる。したがって、C個人が投資経験を積むための環境の整備(ウェブ上での投資シミュレーションサイトの提供など)が重要である。
第2部「診療報酬決定過程のゲーム理論分析」では、診療報酬の決定過程をゲーム理論を用いて分析し、改革前後で比較・検討を行った。診療報酬とは診療行為ごとに点数表の形式で示された医療行為の価格表のことである。この診療報酬の決定においては中央社会保険医療協議会(以下、中医協)、厚生労働省(以下、厚労省)、財務省の3つの主体が関与している。中医協は診療報酬の内容について、審議・答申する厚労省の諮問機関であり、その委員は医師代表など医療従事者を中心に構成される。診療報酬の決定には@個々の医療行為の価格決定、A改定率の決定という2つの側面がある。ここでは、医療の専門知識を要する@は取り上げず、中医協、厚労省、財務省の3者が関わるAを分析する。Aでいう改定率とは医療行為の価格全体の変化率を表すものであり、その決定は医療費に大きな影響を与える。わが国の医療費は規模が大きく、また膨張傾向にあることを考えると、改定率はわが国の財政にも大きな影響を与える。このような性格を持つ改定率はどのように決定されるのが望ましいのか。ここでは、まず改定率の歴史的推移を整理し、次いでゲーム理論を用いて改革前後における決定過程の比較・検討を行った。その結果、次の3つの結論を得た。第1に、改定率の決定過程のタイプは(a)建議方式、(b)諮問方式、(c)改革後の方式、の3つに区分できることである。(a)は中医協がまず改定率を建議し、これに基づき形式的な厚労省の諮問と中医協の答申が行われ、予算編成過程を通じて改定率が決定される方式である。(b)はまず厚労省の諮問を受け、中医協で改定率の審議をし、それを受けて厚労省と財務省が折衝を行って改定率を決める方式である。(c)は財務省や経済財政諮問会議が中心となって改定率を決定する方式である。第2の結論は、状況により3つの関与主体の影響力が明確に異なることである。すなわち、@上記(a)の方式においては、厚労省の影響力が弱いため、中医協または財務省の意向を反映して改定率が決まること、A上記(b)の方式では、厚労省、中医協、財務省の3者が同一の影響力を持つこと、B改革後の(c)では、財務省および経済財政諮問会議の影響力が圧倒的に強くなる一方、厚労省および中医協といった医療関係者の影響力が著しく弱まること、である。第3の結論は、今回の改革((c)の方式)では医療関係者の専門的見地からの判断が乏しくなることが懸念されるので、財政的知見と専門的知見のバランスを確保するため、この制度の適否(例えば(b)の方式への復帰)を今一度検討すべきこと、である。
キーワード:金融商品取引法、個人投資家の保護・育成、適合性原則、金融リテラシー、診療報酬、改定率、ゲーム理論、諮問方式