今日は、われわれにとって最も身近かなことを取り上げたい。今日諸君に贈るメッセージは「勉強とは新しい理解方法を知ることである」というものである。 そもそも、諸君はなぜ「勉強」するのだろうか。それは「大学卒業の資格があれば、そうでない場合よりも、就職とその後の仕事人生において有利になるからだ」と答えるかも知れない。確かに、直接的にはその通りである。しかし、なぜ諸君はそう考え、また社会も一般にそのような認識を前提にしているのだろうか。それは、大学で勉強することは、色々な知識を身に付けるという以上に大きな意味を持つからである。 確かに、勉強することは、知らなかったことを知る、という点で大きな意味を持つ。しかし、大学の授業を通して学ぶ個々の知識は、それが卒業後に就く仕事に直接役立つというこ。とはあまり多くない。また、特定の知識の妥当性は、時代とともに低下することが避けられない。すなわち、学んだ知識は必然的に陳腐化する。だから、勉強することの意味は、むしろそれ以外のところにあるのだ。それは、勉強をすれば、これまで知っていたことがある日突然、全く新しい方法で理解できるようになる、ということを体験できる点である。 例えていえば、われわれは、自分の住んでいる住宅、その周辺の道路、鉄道の駅、公民館などは、毎日の生活を通してその外面的な特徴までよく知っている。しかし、ひとたび、郊外の小高い丘の上に立つと、町全体を一挙に見晴らすことができ、それら全体の相対的な位置や方角はもとより、市街地と田園地帯との相対的な関係、自分の町と隣町との相対関係、丘陵と市街地の関係など、全体を見事に展望できるようになる。つまり、小高い丘に登れば、これまで長年知っていたこれらのことが全く新しい視点から理解できるようになるわけだ。 勉強することは、これに類似している。つまり、それは、既知の事実に新しい解釈があることを知ったり、既知の考え方が新しい脈絡で理解できることを知ることである。勉強することは、まさに丘陵に登ることの必要性を認識すること、そしてその手段を体得すること、に他ならない。それらこそ、勉強することが持つ本来の、そして永続的な意義だと私は思う。 多くの諸君は、SFCに入って勉強し始めてから「ああ、なるほど」と、目から鱗(うろこ)が落ちるような気がした体験がすであるのではないか。例えば、ミクロ経済学を(中級レベルまで)一通り学んだあとでは、市場経済とは、われわれの欲しいものが手に入る一つの精巧なシステムであること(しかも一国の中央で誰か賢人が常時命令をだす必要もなく作動するシステムであること)に大きな驚きを覚えたことだろう。また、マクロ経済ないし金融論を学んだあとでは、株価の動向も、長期的に見た場合には、毎日テレビ報道されるような単なる売りと買いといった表面的な現象を越えた、より大きな理解(株価の背後にはより基本的な要因があること)ができることに快い衝撃を感じたのではないか。 かなり前のこと(一九九六年度春学期)であるが、私の研究会(ゼミ)に所属していたK君がタームペーパーを書き上げ、私の部屋を訪れてこれに類する感想を喜々として私に話していたことを今でも印象深く思い出します。彼は、自分の学期論文(テーマは金融政策の効果波及過程)を執筆するために、当然多くの文献を漁って読む一方、論文の構成を改善すべく何度も私に相談にやって来たうえで、やっと最終的に論文をまとめ上げました。それを私に提出する時に彼はいうのです。「これまで知っていた事実や、他の授業で学んで知っていた理論が、この論文を書くことによって全部意味を持ってつながって見えるようになりました。こんなに愉快な経験をしたのは初めてであり、とてもうれしいことです」と。彼はこの論文を書くことで、私のいう意味でほんとうの勉強をしたわけです。 私も、このような経験を何度もしています。例えば、この授業のテキストの一つに書いたことですが(「現代金融の基礎理論」第一章のボックス一を参照)、金融の理論と貿易の理論は本質的に同一の面を多くもっており、このため両者の理論構造や理論的分析用具は極めて類似している、ということに関してです。貿易論や金融論を中級レベルまで勉強すれば、両方の分析道具の類似性に誰でも容易に気づくはずです(凸集合で示される投資機会曲線ないし生産可能曲線や、等価値曲線として示される利子率ないし交易条件など)。これは、国と国をまたがったモノの交換(国際貿易)と、現在と将来という異時点間にまたがった購買力(究極的にはモノを支配する権利)の交換(金融取引)は、ともに交換取引であるので、それは当然のことなのです。しかし、それにもかかわらず、そうした両者の関係を明示的に記述したものは、日本語だけでなく英語の書物にも不思議なことに全く見あたらなかったのです。これは、多分、私個人にとっての発見に過ぎないことかもしれませんが、このことに気づいたとき、とてもうれしくなりました。 既存の知識に新しい解釈を加える、あるいは既存の知識を新しい脈絡によって相互につなぐ、という能力は、実はどんな仕事においても応用力が高く、また普遍的に要請される力量です。なぜなら、苦況に陥った時、あるいは問題状況が発生した時には、そこから脱却するには従来にない認識の仕方で状況を理解することが不可欠である(第一章(四)を参照)からだ。このため、新しい解釈を加える力、あるいは新しい視点でものごとを再構成する力があれば、苦境からの脱出ないし問題解決が可能になるからです。こうした能力の獲得にこそ、勉強することの大きな意義が存在するのです。 さらに、その努力の過程においては、色々なことを自分なりに「発見」できるので、勉強することは、とても楽しいことであり、生きがいを感じさせてくれることでもあります。勉強は、卒業単位を習得するためにせざるを得ないものである、という視点だけから捉えるのは、さびしく、そしてつまらないことです。 ただし、ここには一つの留意点があります。それは、勉強をして自分なりに種々の「発見」をするという喜びを得るためには、十分な時間と労力をそのために割くことが絶対に欠かせない、ということが厳しいけれども前提条件になることです。先に述べたK君のような喜びは、同君がそうであったように、まず懸命な勉強努力があり、その結果としてそれが次第にいわば自然発酵するという過程があります。そうしたプロセスを経ることによってはじめて、ある時点で突然その成果が目の前に現われる(発火点に達する)ものなのです。十分なインプットがない状況において、勉強の成果とその喜びが訪れる、などということはありえないことを知っておく必要があります。 旧知のことに新しい理解方法があることを発見するのは楽しい。ただ、それには格段の努力が前提となる。 (「金融経済論」講義より、二〇〇二年五月二十七日) |