(五)失敗---失敗から教訓を得ればそれは成功である

今日のメッセージは「失敗から教訓を得ればそれは成功である」という考え方です。われわれは、何と多くの失敗(failure)をしたり、誤り(mistake)を犯したりすることでしょうか。例えば、朝ぐずぐずしていたので、バスを一台乗り遅れ、授業に遅刻してしまった、という比較的小さい失敗は日常的に経験することです。また、家族あるいは友人と話をしているうちに、かっとなり汚い言葉で相手を罵倒してしまったとか、あるいは、電車の中で老人あるいは身体の不自由な人に席を譲りそこなった、とかいう失敗あるいは誤りは、ほとんどの諸君にとって身に覚えのあることでしょう。さらに、四年生の諸君の場合、就職したいと考えていた企業から不採用の通知を受けるとか、国家公務員になりたいと思って学生生活の大半を注ぎ込んでそのための試験勉強をしていたのに、試験に不合格となる、といったことが生じるかもしれません。

失敗や誤りは、誰の場合にも必ずあります。それは、人として社会に生きていく以上、人生のいわば正常な姿でもあります。失敗をした時、それをそのまま忘れてしまい、また次の失敗をする、ということを繰り返すことになる可能性があります。もし、そうなるのであれば、それは明らかに望ましくない、そして責められるべきことであり、それは失敗あるいは誤りそのものです。

 しかし、なぜ失敗したのか、本来どうすべきだったのか、次に同じ状況が生じた場合にはどうするのか、をしっかり考えることができれば、その失敗には大きな意味があります。失敗から学ぶ、あるいは失敗から(苦い)教訓を得る、ということです。それが失敗したこと自体の意味を大きく変えることになります。

失敗の反対は、うまくゆくこと、首尾よくことが運ぶこと、あるいは成功(success)です。成功は、的確な判断(good judgement)をしたからこそ生まれるものであり、その結果です。一方、的確な判断は、経験を積んだ結果、可能になるものです。そして経験とは、多くの場合、的確でない間違った判断(bad judgement)、すなわち誤りの結果として得られるものです。だから「成功の裏には失敗あり」というわけです。何という興味深いパラドックスでしょうか。

このことは、日本でも古来から「失敗は成功のもと」という諺に表わされています。ただ、ここで、私としては一つ強調しておきたい点があります。それは、短い諺であるために言わずもがなの感じがしないでもありませんが、この諺には多少言い足りておらずいま少し補足する点があることです。つまり、ここでは、失敗と成功を直接に原因と結果というふうに結びつけていますが、両者の間には「教訓を引出すことができれば」という前提、あるいは能動的な対応姿勢が入っている必要があります。それがなければ、失敗は失敗を累積させるに過ぎません。ちなみに、この諺は、英語ではEvery failure is a stepping stone to successという言い方がされ、a stepping stone(一つの踏み石)という言葉を通して能動的なニュアンスが入っています。だから、この表現の方が私の趣旨により合致しています。

失敗は、それを活かすことによって成功が得られる。ここでいう成功とは、ものごとに関して期待通りの結果が得られるようになる、という意味です。しかし、失敗の経験を活かせば、実はさらに大きな収穫が伴ってきます。それは、考え方に幅ができることから自信がつき、その結果、自分を不必要に卑下することもなくなり、そして自分の人格を尊重して品位を保つことができるようになることです。つまり、このことは、福沢(諭吉)先生のいう自尊心(self-esteem)を涵養するゆえんでもあります。そして一方では、自分の誤りを積極的に認めるわけですから、独りよがりの姿勢は弱まり、すなおに他に学ぶ気持、すなわち謙虚さ(humility)の重要性がわかるようになります。

これらはすべて、人間として成長することを意味しています。そして、このようにしてもたらされる成長あるいは進歩こそ、われわれが求めるべきものに他なりません。われわれが求めるべきは、失敗のない完全性ではなく、あくまで進歩と精神的な成長なのです。

私自身が失敗したことを、とても恥ずかしい話ですが、一つ述べておきましょう。それは、約一年前、国外研究期間中に英国オックスフォード大学に滞在していた時のことです。八百年の歴史を持つこのユニークな大学は、われわれが通常いだいている大学のキャンパスというイメージで理解するのはなかなか困難です。この大学は、SFC(湘南藤沢キャンパス)のように一つの敷地の上に物理的かつ機能的な集合体として存在するのではなく、オックスフォード市内に散在する独立した多くのカレッジ(学寮)によって構成されている組織です。だから、一つの授業ないしセミナーから次の授業ないしセミナーへ行くにも、徒歩で行くのは実際的でありません。このため、学生だけではなく教員の場合も、自転車がたいへんよく使われています。

ある日、私はセミナーに出席するため、自転車で急いで道路の向こう側に渡り、自転車に乗ったまま比較的狭い歩道の上を前進し始めていました。ところがその時、初老の紳士から「ここは歩道です。どうか自転車から降りてくださいませんか」と、ていねいな表現で、しかし大きな声で注意されました。狭い歩道だったので、私自身、降りる必要があると思っていた矢先のことだったのですぐに降りたところ、その紳士は「どうもありがとう」と私にいってそのまま通り過ぎました。私は、ただあっけにとられ、何の言葉も出ませんでした。

これは、ほんの一分足らずの間の出来事でした。しかし、この日は一日中とてもいやな気分でした。なぜなら、私としては、この年齢になってから、人の前で大声で叱られるとなどいうことは全く考えもしないことだったからです。この出来事は、その後、何日間かにわたって自分の心の中でわだかまっていました。しかし、そのうちに、急に目の前が開けたように、この「事件」全体の意味がわかり、自分としては納得のいく出来事であることになりました。

というのは、まず、狭い歩道上を自転車で行くことは、この紳士のいうとおり、余りにも思慮を欠く行為であったことを痛感したからです。また、そのことをわざわざ注意するのは、この紳士としても相当勇気が要ることだったに違いないことだったでしょうが、それにもかかわらず、わざわざそういう行為に及んだことに、深く感じ入りました。「沈黙を守るべき時があれば、口に出さなくてはならない時もある」(第一章(一)を参照)わけであり、私はその紳士の勇気に心を動かされたわけです。さらに、「どうもありがとう」という言葉を最後に残して立ち去るという相手(注意を受けたばかりの私)への思いやり、これにも全く感心しました。注意を促す一方、それに従ったことに礼を述べるというのは、なかなかできることではありません(感謝の気持ちについては、第一章(十五)を参照)。

 この一件の後、自転車に乗る時には従来になく注意を払うことにしているのは当然ですが、色々なことを私に気づかせてくれ、そして教えてくれたこの紳士に今ではとても感謝しています。この方が誰だったのかは全くわからないし、また調べるすべもありませんが、折りにふれてこの日のことを思い出すのです。

人は必ず誤りを犯す。それは活かせば許されることになり、そこに進歩と成長がある。

(「金融経済論」講義より、二〇〇二年五月二十日)





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