(三)着実---千里の道も一歩から始まる

今日のメッセージは「千里の道も一歩から始まる」です。この箴言は、とてもわかりやすいものです。千里もある遠い道を旅するにしても、文字通り、まず第一歩を踏み出し、そして一歩一歩のあゆみを積み重ねることによって、遠い道のりも終点に行き着くことができる、というものです。例えば、われわれが山登りをする場合などの経験を通じて、このことは実感としてよくわかっていることです。頂上に立った時、登って来た道のかなたには、登山の出発点のふもとの集落が見えます。はるか彼方に小さく見えるそのように遠いところからよくもこんなに高い所まで登ってこられたことだな、という感慨を覚えることが多いものです。それはまさに一歩一歩、山道を踏みしめるというプロセスがあったからこそ実現したことに他なりません。

われわれが努力を傾注して実現しようとする仕事は、それがどのようなものであれ、全体を一挙に完成することは不可能です。われわれにできるのは、それを構成する一つ一つの部分あるいは部品ごとにとりだし、それらに対して一日ごとに取り組んでいく必要があります。なぜなら、それ以外には方法がないからです。しかも、人が一日努力したところで、一日間で完成できることは、きわめて小さいものでしかありません。しかし、日々達成すべき小さな目標の数が全体として十分多く存在し、またそれらの一つ一つを完成させるための強い意志と実行が毎日重ねられていくならば、最終目標は、それがどんなに大きなものであれ達成することができるものです。

人生は、日々の小さいステップを進行させることによって成り立っています。しかも、ありがたいことに、そうした小さいステップを現実に日々一歩ずつ進めることは、大きなイメージとしての最終目標に一気に挑むよりも、はるかに容易なことです。さらに、われわれは、一挙には対応できないにしても、一日ごとに与えられる仕事をこなすだけの能力とそれに伴う喜びを与えられています。明日のことを心配するには及ばない。明日がくれば、明日の挑戦に対するエネルギーが与えられるからだ。だから、毎日、最終目標の達成に貢献するようなその日の仕事を、それがどんなに小さな仕事であってもかまわないから、実行していくことが大切である。一日一日の対応を着実に行っていくことだ。また、ステップは一つずつ踏むことで十分でもある。そうしたことは、確かにその日一日としては小さな結果し生まないが、われわれを一つの誤りのない方向に向けてくれるものであり、またそれが積み重なって目標達成に至るものである。しかも、ありがたいことに、第一歩を踏み出せばとても気が楽になり、第二歩目もたいていの場合、すぐに見えてくるものです。

こうしたことは、自明の真理であると諸君は考えるかもしれない。しかし、単にそれを知っているというだけではあまり意味がありません。それを、自分の考え方としてしっかりからだの中に埋め込み、日々の生活の基準にすることがとても重要です。例えば、家を建てる場合、材木を一本ずつ運び、それを組み込んでゆくことによってはじめて家を完成させることができる。また、諸君が大学(SFC)の卒業証書を手にしようと思えば、履修科目を一つずつこなし、科目一つずつにつきその期末試験を受けて単位を取得し、その累積結果として卒業資格を得る、ということ以外には方法がありません。

そして、履修科目の単位を取得するためには、多くの場合、タームペーパー(学期論文)を書かなければならない。そのタームペーパーも、手品のように一晩で無から有を生じさせるということはできません。それは、あくまで一語一語ごとに書きあげる(あるいはコンピュータのキーボードを打つ)という作業を通して初めてできあがるものです。しかも、その一語一語を書くためには、既存の資料や論文を収集する、資料を読んで咀嚼(そしゃく)する、その過程を通して論点を一層研ぎ澄ます、読んだ資料の要点メモを作る、論文の構成を考える、論文を書き始める、その過程で論文の構成について再考を迫られるので文章の切り貼りを行う、論文全体をプリントして読んでみる、論理や用語の改善を行う、など実に多くのステップが要請されます。単位取得にふさわしいタームペーパーは、それらを一つずつ着実に進めることによって初めてできあがるわけです。それ以外には方法がありません。

意味のあるものごとは、このように一つ一つの積み重ねによってしか達成できないのです。そして、それを達成しようとすれば、どんなに小さくてもまずそのためのスタートを切る必要があります。これが「千里の道も一歩から始まる」ことの教訓です。これは、もともと中国の諺(ことわざ)ですが、日本でもたいへんよく知られている(日本の諺だと考えている人も少なくない)だけでなく、英語圏でもそのまま英訳されてよく知られた箴言になっています(英語ではThe journey of a thousand miles begins with a single stepというふうに訳されています)。また、そこに述べられたことは、時代を越えた真理といえるため、西欧でもこれに類似した格言がみられます。例えば、戦争で勝利をおさめようとしても、一挙に大きな領土を獲得することは不可能であり、あくまで一メートルごとに軍を進めることによってはじめて相手国全体の占領が可能になることから、このことは「分割せよ、そして征服せよ」(Divide, and conquer)という簡単な表現でいい表わされています。

私自身、千里の道の格言は最も好きなものの一つであり、これまで、それによって大きな示唆を受けてきました。その例は、数えきれないくらいありますが、例えば、この授業のテキストである二冊の本を完成させるときも、それは常に大きな指針となりました。これらの本は、一か月や二か月ででき上がったものではありません。私がSFCに着任し、金融論の授業を担当するようになって以来、学期期間中であるか夏休み期間中であるかを問わず、少しずつ、しかしコンスタントに作業を続けてきた結果、五年半かかってやっと完成したものです。

 余談ですが、この二冊で合計九〇〇ページもあるので、これらは一科目の教科書としては大冊に過ぎる、という声を学生諸君から聞くことがあります。しかし、この二冊は、現代金融論の課題を網羅的に論じたものであり、日本語の書物としては類例がないだけでなく、米国等の大学では、一教科の教科書はこのくらいのページ数があるのが普通であることを強調しておきたい。

一歩ずつ進める以外に成し遂げる方法はない。小さい一歩でよい、今日踏み出そう。

(「金融経済論」講義より、二〇〇二年四月二十二日)





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