今日のメッセージは「正直な言行によって信頼感が得られる」です。皆さんには、まだ現実の問題として捉えることが困難かもしれないが、人間一人一人には、早かれおそかれ必ず「死」がやってきます。だから、それに至るまでをどのように生きるか、という問題こそわれわれにとって本当に大切なことになります。この限りある生きている時間をより満ち足りたものとし、そして自分自身のエネルギーをより適切に使うには、人間にとってより次元の高い価値は何かを考え、それを追求する姿勢を持つことが必要であり望ましいことだ、と私は考えています。 より次元の高い価値とは何か。これは難しい哲学的な問題です。とくに価値観が多様化した現代においては、これに適切な一意的解答を与えることが困難であるかもしれません。しかし、一般的にいえば、時代の流れを超越しどのような社会でも広範に受入れられている幾つかのことがら、すなわち善(善いこと)や正義(正しいこと)が高い価値を持つといえましょう。もっとも、これらの内容を的確に規定すること自体、必ずしも容易でないかもしれませんが、より具体的には、正直(honesty)、謙虚(humility)、奉仕の精神(service)などがそれに含まれると思います。 ここでは、それらのうち「誠実さ」、英語では「インテグリティ」(integrity)といわれていることを取り上げ、その内容を明らかにするとともに、なぜそれが重要なのかを考えたい。それに焦点をあてるのは、インテグリティという概念は、国際的にみると(といっても私自身の主として欧米文化圏での経験が中心でありその点で多少限定的ではあるが)、個人の場合(personal integrity)についてはもとより、職業上のそれ(professional integrity)、組織に関するそれ(organizational integrity)など、様々な場合にこれが極めて重視されているからである(組織のインテグリティについては、第四章(二)で論じたのでそれを参照)。 これに対して、日本においては、その概念や重要性が一般にはまだ十分に理解ないし認識されているとはいえない面がある。しかし、これから国際社会に出て活躍する諸君には、その意義をしっかり理解し、それに向けて努力してもらうことを私は期待しているわけです。 個人に関するインテグリティ(誠実)という場合、その重要な要素として、まず、うそ偽りのないこと、あるいは「正直さ」(honesty, sincerity)がある。(なお、英語のインテグリティという言葉には、以下で述べるように、日本語の「誠実さ」という言葉よりも広くかつ強い意味が含まれるが、それにより近い日本語は見当たらないので、本書では両方の表現を適宜用いることにする。)事実、日本語でもまた英語でも、誠実さという言葉は、正直さと同義で用いられることが少なくない。これからみても、正直は、誠実さにとって不可欠の要素であることは間違いない。そして正直とは、真実を語ること、すなわち「言葉を事実に 一致させること」を意味する。 しかし、インテグリティにとって、正直は一つの要素であるに過ぎず、その十分条件ではない。なぜなら、インテグリティは、通常、さらに二つのことを追加的に含んだ概念であると考えられているからである。一つは、上記とは逆に「事実を言葉に一致させること」も重要な要素になることである。換言すれば、口に出していう言葉(すなわち約束)どおりに行動すること、予想を裏切らないように行動すること、つまり責任を持った行動ができることである。そうした行動面の特徴が、インテグリティのもう一つの要素である。つまり、インテグリティとは、事実と言葉の関係が、どちらの方向からみても一体化、完全化していることである(以上の解釈は巻末文献に挙げたモンテフィオーレ氏の論文に依存している)。インテグリティという言葉が、完全性(integer)を語源としているのもうなずける。インテグリティにとってもう一つの不可欠の要素は、対象となる相手の人が目の前にいる場合はもとより、いない場合でも同様に忠実な行動ができることである。つまり「陰ひなたのない」行動ができることだ。 一例を挙げよう。諸君がインテグリティを持った人 (a person of integrity)である、とくにインテグリティを持った大学生である、といわれるためには何が必要になるかを考えてみよう。そのためには、まず、事実に反することをいわない態度(うそをつかないこと)が必要である。それとともに、約束したこと、あるいは自分の立場上要請されることは(それが書面になっているか否かを問わず)責任をもって行動に移せることが、求められる。つまり、インテグリティを持った人であるためには、短かくいえば、言葉と行動にうそがなく、自分のおかれた立場にふさわしい行動(それは道徳的基準を満たした行動である必要がある)をする能力がある人のことである。とくに諸君の場合には、大学生に期待されていることを満たすような行動ができること、すなわち大学生にとって最大の仕事ともいえる勉学に最大限のエネルギーを注いでいること、が要請されるだろう。そして、重要なことは、人が見ていようが見ていまいが、あくまで自分で責任を持ってそれらの行動ができることである。 諸君らには、ぜひ、このような意味でインテグリティを持った大学生になってほしい。それは、国際的に通用する人格的能力にほかならないからだ。また、それだけではなく、インテグリティを持てば実は大きな報いがあるのである。 第一に、インテグリティを基本原則に据えた生活をするならば、どのような状況にも安心して対応できることである。もし、ものごとに関して正直でないならば、それは一つの秘密を自分自身が抱えることを意味しており、このためそれは自分の気持ちの上に重荷となってのしかかってくる。しかし、常に正直を旨としており、それをもとに決定をくだすという態度をとるならば、他人にどのような言いわけをするかといった不安な気持ちを抱く必要はなくなる。このため、対応すべき問題の性質がぼやけたり、あるいは周囲を当惑させるような決定をする懸念がなくなるので、それは結局「良い判断」を可能にする。インテグリティを生活の基準におけば、自分の心の静かさ(serenity)が得られるばかりか、このように、下さねばならない判断や決定もより的確なものになるのである。 第二に、インテグリティは責任を持って行動することを意味しているので、第三者からの信頼感(trustworthiness)が高まることになる。これは、自分にとって喜びになる。そして第三に、インテグリティを生活の基準におけば、込み入った日々の生活を単純化できるメリットもある。しかも、それは毎日の生活に自信をもたらしてくれるものでもある。 古来から「正直は最善の策」(Honesty is the best policy)といわれる。それは直接的にはうそをつかないことについての知恵を示すものであろうが、それよりも広義に、インテグリティという意味でそれをとらえた場合にも、この命題は妥当性を持つ(むしろ妥当性が一層高まる)といえよう。 以上述べたようなインテグリティということの意味がいかに重要であるか。私はこれまでの人生経験や海外における仕事や生活を積み重ねるに従い、その感をますます強めています。そして、それを常に念頭においた生活をしていきたいと思っている。私のそうした心構えの例として、SFCでの各種会議(ことに運営委員会)における私の姿勢にあえて言及しておくことにしょう。 それは、会議で私なりの考え方や意見を述べる場合、それは単に当該会議の出席者に対する私からの発言であるにとどまらず、自分が何らかの資格で代表している以上、自分の背後におられる会議メンバーでない教員諸氏に対する私からの発言でもある、ということを常に意識して会議に参加していたことです(第三章(二)を参照)。それは、当然のことをしただけかも知れないが、そのことを常々念頭において議論に加わったことは、自分の考えや振舞いをそれによってコントロールでき、また会議の方向づけにも何らかの寄与ができたのではないか、と思っている。 インテグリティ(誠実さ)は、それ自体が大きな価値を持つ。しかも、それだけにとどまらず、それを目指した生活をすれば心の重荷が軽減され、自信も湧いてくる。 (「研究プロジェクト・日本経済研究」講義より。二〇〇二年七月二日) |