今日のメッセージは「自己を律すれば自分の人格が尊重でき品位を保てる」である。より簡潔に表現するならば、自己規律は自尊心を向上させる、ということになる。 慶應義塾の学生であれば、「自尊」という言葉は、義塾創設者の福沢(諭吉)先生の教えであるとしていつも聞かされている。ところが、それ以外には必ずしも日常的に耳にする言葉ではない。また、その本来の意味が学生諸君に十分には理解されていない、あるいは多少誤解されている面もある、というようにみえる。しかし、この言葉が本来意味することは実に重要であると私は思っている。 自尊(self esteem あるいは self respect)という言葉には、確かに、自分で自分をえらいと思いこむという意味もある。そうした思いや振舞いが強く現われる場合には、思いあがって人を見下す(尊大になる)とか、おごり高ぶって人をあなどり見くだす(傲慢な態度をとる)とかいうことになる。しかし、ここでいう自尊は、むろんそうしたニュアンスを持つ意味ではない。それは、自分の人格を尊重し、品位を保つこと、を意味する言葉である。「自尊」、すなわち自分自身の人格を素直に尊重することができ、また人間としての心の高さが保てること、これは独立した一人の人間として必要なことである。 そのためには、当然、常日頃の心構えと努力が必要になる。とくに、自分自身の考えや行動を自らけじめをつけたものとできること、すなわち自己規律(self-discipline)心を持つことが求められる。それは、いろいろな邪念や不正に面した時、それらに打ち勝って自分自身に対して「ノー」ということができること、を意味する。またそれは、他人からいわれてそうするのではなく、あくまで自分自身でそうすることができる力量であることが重要な点である。自分自身の独立した見定めに基づいて、そうした判断や行動が常にできること、これが要点である。 したがって、自分自身を規律づけることができること(自己規律)のためには、ものごとを自分の判断と責任において決めることができること、すなわち独立心がその前提となる。両者は、不可分一体のものである。慶應義塾では多くの場合「独立自尊」というふうに両方の言葉を併せて用いるが、それはまさにこのためである、と私は解釈している。 われわれは、自尊心を高めるため、そのような自己規律の力量を高める努力する必要がある。そうした力が高まってくれば、そういう対応ができる自分自身を素直に尊重することができるようになり、自尊心が高まる。実はそれだけではない。ことに重要なのは、そうした結果、自分以外に対する姿勢も変わること、すなわち他人に対してはより大きな尊敬、親切心、そして寛大さをもって接することができるようになる可能性が大きいことである。自分の尊厳を維持することは、ちょっと考えただけでは、自分が尊大になり、そのため他人の尊厳を無視するようになるかのように思われるかもしれない。しかし、そうではないのである。自尊心が高まれば、他人の尊厳に一層配慮できるようになる可能性が大きいのである。これは、何と興味深いパラドックスであろうか。 また、自尊心が高まれば、一見したところでは、謙虚さがなくなると考える向きがあるかもしれない。しかし、この点に関してもまた、それとは逆になる可能性が大きいのではなかろうか。確かに、自尊心が高まれば、自らをいやしめる(卑下する)ことがなくなるであろう(それは望ましいことといえる)。そして一方では、上述したように他人の尊厳に一層配慮するという姿勢が強まり、それとともに、すなおに他に学ぶ気持、すなわち謙虚さ(これは一つの美徳といえよう)も出てくる可能性が大きいと考えられるからである。したがって、自尊心と謙虚さは、何ら矛盾するものではなく、むしろ共存するものと考えるほうが正しいと私は思う。 われわれは、情報に関するノイズ(雑音)の多い現代社会に生きており、その中で常時適切な判断を下していかねばならない。その場合、独立した精神と自尊心は、欠かせない要件になる。またそれは、国際的な場で活動する場合においても要請される一つの普遍的な条件であろう。これに関連して、かつてSFCの教員であった(故)江藤淳教授が、その最終講義(一九九七年一月)において話されていたことを思い出す。それは、同教授が学生として学ぶ大学としては慶應義塾を選び、その後にも教授として義塾の招聘に応じることにしたのは、まさに百年以上も前にこのような普遍妥当性を持つ一つの思想を確立した驚異的な人物、福沢(諭吉)が創立した学塾であったからこそである、というものであった。私にとっても、福沢先生の思想のこのような斬新さを知ることは改めて驚きであり、また尊敬の念を強く抱かざるを得ない。 私自身に関し、自らの自尊心を述べたり、ましてやそれを評価するのは適切とはいえまい。その代わり、自己規律に関して、その一例として私の場合を開陳しておこう。それは、以前述べたことがらでもあるが、私の仕事時間の取り方と仕事の仕方についてである。すなわち、私の場合、講義や学内の各種委員会がある日を除き、通常は午前中に二時間の時間ブロックを一つ、そして午後には同様の二時間のブロックを二つそれぞれ確保するように努力している(第一章(七)を参照)。その場合、これらの貴重な時間ブロックは、原則として本来の任務(研究、授業の準備、学部運営関連など)のためだけに使用し、その時間を私的には使わないこと、そしてこうした仕事日を週五日(多くの場合週六日となるが)は確保すること、さらに仕事は原則として大学の部屋(研究室)で行うこと、をルールとして自分に課している。 自分自身に対するこうした規則は、大学に移る前に大きな組織で長年(九時から五時というかたちで)働いた経験や、以前述べた時間管理の考え方などに基づいて作り出したものである。こうした生活パターンを選択しているため、大学の部屋に居る(いわば出勤している)時間がいきおい長くなる。このため、学生諸君からは「先生はいつも大学におられますね」という声を聞くことが少なくない(その意味は図りかねているが、ひょっとすると「もっと外部の研究者や研究機関との直接的な接触を増やす必要があるのではないですか」という皮肉かもしれない)。それは、あくまで私の仕事方法であり、それ以上のこと(例えば「よく働く教員だ」という評価につながること)を意味するものではない。ただ、私としては、自分のこのやり方によって職責遂行に努力しており、その点で批判を受けることはない、との自信はある。 SFCには、キャンパスにおいて直接顔を合わせる機会が少ない教員の方々も、かなりの数いられる。これらの方々は、ともすれば「あまり働いていない」という目で(特に学生諸君からは)みられかねないが、もちろんそうしたことを意味するものではない。これらの方々は、職責執行については、たいていの場合、私とは別の考え方を持ち、また別のワーク・スタイルを採っているだけのことである。それらの方々の中には、私など足もとにも及ばない業績を挙げ、またSFCへの貢献もしておられるケースが実に多いことがこれを物語っている。SFCの名声は、そうした方々のおかげである。 自尊心が高いほど、他人に対しては、より大きな尊敬の念と寛大さをもって接することができる。 (「研究プロジェクト・金融研究」講義より。二〇〇二年六月二十五日) |