(一〇)責任---自分の考えや行動に責任を持てば分別力が高まる

今日のメッセージは「自分の考えや行動に責任を持てば分別力が高まる」である。「責任をとる」という場合、それは、自分でしたことから起こる損失や制裁を自分で引き受けること、を意味している。つまり、それは事後的なこと、後ろ向きのことを示唆している。しかし、そのような解釈は単に一面を捉えているに過ぎない。責任をとるという行動には、より大きな、そして積極的な意味があることを知ることが大切である。それは、社会が一つのシステムとして機能していくうえで必要であるだけではなく、個人が成長していくうえでも不可欠のことがらだからである。

われわれの生活は、常に何か選択をしなければならないという場面の連続である。昼食のメニューの中からその日の食べ物を選ぶ、同じ曜日の同じ時限に開講される授業のうちどちらか一つを選ぶ、学部を代わる(転学部)という選択をする、大学院進学を断念して就職することを選択をするなど、その例は軽微なことがらから重大なことがらまで様々である。つまり、選択するとは、幾つかの代替的なことがらの中から適当と考えるものを選び出すこと、そしてそれと同時にそれ以外のものを捨て去ること、である。

われわれは、他人がどのようなことがらを選択するかをコントロールすることはできない。しかし、自分自身がどのような選択をするかは、完全に自由である。だから、自分自身が選んだことについては、その結果がどのようなことであれ、受け入れる必要がある。これが「責任をとる」ことの意味である。このように、選択と責任は表裏一体の関係にある。逆にいえば、他人が選んだことは、選択した結末をあくまでその人自身が受入れるべきものであり、その人以外の者には何ら責任がない、と考えるべきである。

こうした考え方は、一つの割り切った考え方といえるかもしれない。また、自分の行動に関する限りすべて責任をとる(他人のせいには一切しない)、ということは現実には必ずしも容易なことでないかもしれない。しかし、精神的に成熟(mature)した大人の社会にとっては、それが必要条件になる。子供の場合には、その行動の責任を親がとるのが通常の姿である(そのほうが色々の観点からみて適切である)。だが、大学生諸君は、精神的に大人になろうとしているわけであるから、自分が選択することすべてに関して責任を持つ、そうしたことを承知のうえで行動する、という態度が求められる。

実は、それは大きなメリットを持つことでもある。まず、他人の行動に関して自分が責任を持つという責任はなくなるので、不必要な精神的負担から開放される。また、責任をとるという態度をとれば、自分自身の言葉や行動に焦点を当てることになるので、受け身的な態度は弱まり、ものごとに関してより慎重な考慮、判断を自ずからするようになる。つまり、分別(ふんべつ)力が高まる。それとともに、自分の力で出来ることと出来ないことがより明確に識別できるようになるので、自分自身の能力についての自覚が高まり、その結果、従来以上に自信もついてくる。

このように考えれば、「責任をとる」という態度をとれば、それは結局、われわれの日常生活をより建設的、かつ実り多いものにするのだ。責任をとるとは、ものごとが望ましくない結果に終わった場合に、事後的に制裁を受けるという点に基本的な重要性があるのではない。むしろ、そうしたことがいわば担保されているために、事前的にわれわれの言葉や行動をより望ましい方向に変えるものである。こうした効果を持つ点にこそ、その大きな意義と特徴がある。

私自身、責任をとる必要があった場面は、これまでに少なくない。例えば、授業中に使用する配付資料の原紙を学生助手に授業の前日に手渡し、それを受講者数だけコピーして授業当日に教室に持参してそれを配付してもらう、といったことをかつてかなり行っていた。たいていの場合、問題は全く生じないが、ある日授業を開始してもその学生助手があらわれず、したがって配付資料もないので授業に大きな支障が生じるという事態が発生した。その原因は、彼が急病になり、いつものようにコピーをして教室に持ち込ことができなかったからであった。

この場合、授業に支障が生じた責任は、彼にあるのではなく授業担当者である私にある。確かに、直接的には、彼がこの日に所定の作業をできなかったことに原因がある(その旨を何らかの手段で私に連絡をする義務が彼にはあった)が、責任があるのは彼ではなくあくまで私である。なぜなら、この日のようなことが発生するリスクを承知のうえで彼に依頼してある(そう解釈しなければならない)からである。それ以来、私の担当授業に関する配付資料のコピーは、すべて私自身がとって自分で教室に持参するようにしている(学生助手にはそれとは別の様々な作業を依頼している)。多数コピーする作業を何も教員が自ら行う必要はないのでは、という見方も当然ありうる。しかし、そうした対応をすることにより、私は授業に支障が生じるのを回避できるとともに、自分自身の不安を減少させることができるわけである。責任のある行動をすることは、自分自身のメリットになる。

例を、もう一つ付け加えておこう。それは、SFCのある仕事を、五名の教員メンバーからなるチームで短期間のうちに行うという任務であった。私は、これとは別にSFCのある仕事をすでに引き受けていたのでたいへん多忙であったが、この仕事についても、責任者になることを学部長から要請されため、結局それも引き受けることとした。その新しい仕事に関しては、当然、メンバー間で何度か打ち合わせを行ったので、所定の期限内には十分な成果が挙がると予想していた。しかし、作業は私の予想通りには進んでいないことが期限直前にわかったため不十分なものしかでき上がらず、結局、関係筋に相当迷惑をかける結果となった。

この場合も、責任はすべて私にある。なぜなら、私はこのチーム全体を取りまとめる役割を持っており、所定の仕事を期限内に仕上げる責任があったからである。たとえ他の仕事が多忙であるにしても、当初その役割を引き受けた以上、全面的に責任がある(他の仕事の多忙さは何ら責任回避の理由にはならない)。また、仮に他の仕事が多忙であるならば、最初に取りまとめ責任者になることをきっぱりと断ればよかったのである。

 きっぱりと(しかし十分な理由をもってていねいに)断ることも、一つの責任のとり方である。なぜなら、その場合、学部長としては、その役目を別の教員にタイミングを失わずに割り当てることが可能になり、このチームの仕事が予定通り進んだと考えられるからである。また、この新しい仕事を進める期間中は、私としてもそれが予定どおり完成するかどうかに関する懸念とそれに伴うストレスが常につきまとっていた。それというのも、結局、私が責任を当初の段階、あるいは途中の段階、いずれにおいても明確にしていなかったことに起因するものである。

 自分の考えや行動に責任を持てば、ものごとに対する自信ができ、毎日の生活がより実り多いものになる。

(「金融経済論」講義より。二〇〇二年六月二十四日)





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